明治時代初期
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全国から集まった物資や食糧を、銚子から利根川を上って江戸(東京)まで運搬する水運が隆盛であったことから、銚子市竹町にて廻船問屋を営む
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昭和初期
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鉄道の敷設により利根川水運も衰退し、乾麺の製造を始める
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〃
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地下水質の良い土地を求めて、現在の松岸町に移住
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終戦直後
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食糧難の時代に小麦粉が入るのを活かして製パン業も始める
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昭和30年頃
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日清製粉の販売特約店となる
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昭和33年
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日清製粉のご令嬢正田美智子さんが皇室へ嫁がれる事に大歓喜
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〃
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蒸し中華麺を二つ折りにして、中に練り状のたれを塗り込んだ即席「ソフトラーメン」が爆発的大ヒット。各地からトラックで直接買い付けに来られてしまってうれしい悲鳴 |
昭和35年
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製パン部門を移転・分社化
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〃
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千葉支店を開設、日清製粉の千葉荷扱所として業務開始 |
昭和41年
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「ソフトラーメン」は賞味期限が短か過ぎた事や、インスタントラーメンが急成長して来た事もあり、売上急衰退、製造中止。代わってゆで麺の製造開始
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昭和50年代
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スーパーマーケットの発展により冷蔵流通が普及し、乾麺が年々減少してゆで麺の比重が増えて行く
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昭和60年代〜平成
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コンビニや外食チェーンの台頭により、既存の地場の食品問屋・スーパー・飲食店が軒並み頭打ち……当社も当然頭打ち
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平成7年 |
ギフト用「引越そば」を作り首都圏の引越業者さんに販売をお願いして歩くも大空振り。 |
平成11年12月
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東京・お台場(有明地区)にうどん・そば・和食の「和食レストラン田久井」を出店。
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平成22年
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日清製粉千葉荷扱所を廃業。跡地をファミリーマートへ賃貸。 |
平成24年2月
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休止していた「引越そば」をネット上で販売再開。 |